いつも、おおきに~
お稽古事 15歳で奈良に来て、翌日から長唄、三味線のお稽古が始まりました。
今は大きな駐車場になっているのですが、元林院から餅飯殿商店街へ抜けた道に 長屋がありそこに お師匠さんは住まれていました。
当時、元林院最高齢の須寿美ねえさん こと 杵屋和一須美お師匠さんです。
奈良では、屋形を「○○席」と言ってまして、中村席のお母ちゃんと「須寿美さん、つるやの姪で舞妓さんになるから仕込んだってなあ」小柄なおしょさん。
三味線は、祖母が持ってはいましたが、触ったこともなく正座もそんなにした事はありません。
そのおしょさん、教え方が変わっていて、三味線を抱え向かい合わせで撥の持ち方から、私の手を握り、手取り足取りです。
「三味線の皮はな、猫やねん」 毎日お家に伺い、御1日(おついたち)には、「おさがり、お食べ」とお赤飯。
譜面はなく、正面のおしょさんの見様見真似で弾きます。
お稽古中に、時折、猫がやってきます。
ある日、猫に「もう〜あんたー邪魔するんやったら三味線の皮にしてまうでー」…と聞いた時は、びっくりしました。
お弟子さんらは皆、私から見ると、大きい大きいお兄さん、おねえさん。みなさん、孫のように可愛がってくれました。
半年後、お浚い会(おさらいかい)で緊張したことといったら…。
15歳から30過ぎてたでしょうか。毎日稽古でした。亡くなるまで大変お世話になり、口下手な私で あまり話しをしなかったように思います。
今となったら聞きたい事は沢山ありますのに。戦争中、兵隊さんに「ギブミーチョコ」言うてチョコレートもろてん。とか、以前にお話しさせていただいた踊りの「花柳芳之丞 お師匠さん」と2人が、「菊乃ちゃんは、よう言う事聞いてくれる 素直や」
「この子はきっちりし過ぎて 時間にも正確で新幹線やなあ」とか。
初めての私の舞台の時、当時難波にあった新歌舞伎で藤娘を舞った時にも、大向こうをしてくれ大声援。
この時、地方 三味線を弾いてくれた、杵屋和一郎お師匠さんに師事していたそうで、
「うちのお師匠さんがな 踊り、この子は伸びる。才能ある子や大事にせなあかん。…がくれぐれも天狗にならんようにな」と言ってくれたそうで…。
長唄 三味線は、とかく苦手で、よく「そこ、ツボちゃうがな!上や、下や、その真ん中や」…とよく言われました。
眠い時に芸妓のおねえさんが、「おしょさん この子 寝てるわ」「寝てたら弾けへんがな」…いえ 眠くて意識朦朧で弾いてました。そんな思い出もあります。
元林院の芸妓は亡くなったら、検番演舞場で葬式やからと、お通夜から、弟子数名で、線香と蝋燭番をして雑魚寝。当時は、クーラーもついていなかったので、扇風機をかけながら、お師匠さんと一緒に過ごしました。しばらくして、関係者皆で、住まいの整理をしに行ったら、「花灯り」と言う一冊の写真集が出てきました。
この「花灯り」5代目 桂文枝師匠がまだ桂小文枝さんだった頃、難波の有名な料亭 大和屋さんと、全国をまわり昭和の名妓を集めた写真集をつくったそうで、その写真集に唯一、奈良元林院代表で おしょさんの姿が。
そこから 全国の花街を集めた「ならまち 花あかり」の夢が生まれたのです。
花あかりの お話しはまたいつか。
Average Rating