茶道は表千家で15歳からはじめ、菊水楼の岡本博行会長。当時は社長さんが、同じロータリーで寝具のキンツルさんの奥様が茶道の先生してはるし、ロータリーの交換留学生の女の子らもいてることやし行きなはれ。と。
毎週水曜日にとても立派な、お宅に通います。
夏は浴衣に足袋を履き下駄で。その時に、よく豊澤酒造の会長さんが「吉田はんとこ行く時、うちとこの前を通ってくれて、下駄がカラコロなってたなあ」と言ってはりました。
うちは若い頃は、甘いものが特に苦手で、懐紙に包んで持って帰ろうとすると、「まーまー そんな痩せてるのにダイエットせんでかましまへんやろ」…と言われて当時、体重は34キロから38キロの間で、とても好き嫌いが激しくて。 茶道の稽古場では、先生がいつも茶花を、玄関や床の間に生けられていて「庭で咲きましてん」…と。
それで私もいつか、お庭で咲いたお花を生けれるようになりたいなあと憧れるようになりました。
コロナ禍で時間もできお庭はないので鉢で育ててます。まだ咲いてませんが…。後輩の妹達ができてからは、お菓子をサッと渡してましたが…。(笑)
そういえば、初釜やお茶席も経験させていただいたな~。
小唄・三味線のおしょさんとの一コマ
長唄三味線のお稽古とともに毎日お稽古をしていただいてた芳村流のおしょさん。屋形、お茶屋をされていた京冨さん(今は喫茶店と飲み屋さんになってます)の芸妓さんやったらしく中村席のお母さんが芸妓に出てた頃一緒にでられていたのか?みよじが同じ中村で「中村はん」と言って屋形にもふらっと来てました。動物が大変好きで猫や犬が数匹いてました。4〜5匹いたように思います。今で言う保護をしていたようです。お正月のお餅を小さく切り乾かし火鉢で丹念に焼き「小ももちゃん食べてや」とよくいただきました。修行中は私の名前は小ももと言う名前で心臓が悪かった芳村のおしょさん。小唄のお浚い会の時も発作がおこったり山にワラビとりに行った後に発作がおこり亡くなりました。この時私は絹谷幸二先生の絵のモデルをしていた時でショックでした。私の初舞台も見れず「いつか京鹿の子娘道成寺が踊ってるとこみたいな」と言ってましたがそれも叶いませんでした。どことなく私の祖母に似ておりでも祖母よりも可愛がってくれ大きな犬を連れて夜散歩をされていた姿、嬉しそうに私を眺めてくれていた姿…。私が成人する迄に亡くなられたので初めて身内以外に可愛がってくれた人が亡くなった事が暫く悲しかったです。
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